拡張現実、という言葉が散見されるようになってきた。
おおざっぱに言えば、携帯電話のような、
「カメラ+ディスプレイ+データベースへのアクセス機能」
からなるケータイ端末を通して、生身の眼でみえる「現実」をのぞくという仕組みである。
最近、ケータイ業界で注目を浴びているのが「AR(拡張現実)」という技術だ。携帯端末などのカメラで現実世界を撮影すると、そこにデータや映像を重ね合わせて表示する。すでに20年近く研究されてきた技術だが、アップルの「iPhone」をはじめGPS(全地球測位システム)や無線LAN、加速度センサーを内蔵したスマートフォンの普及で、商用サービス化が現実味を帯びてきた。(石川温のケータイ業界事情)
なんということはない現実の風景を、携帯端末を通してのぞくと、そこに看板だったり、説明書きだったり、今は見えない壁の向こう側に何があるかの案内だったり、そういうものが端末の画面を通して見えるようになるという仕掛けだ。
このことを「拡張現実」という訳だ。
そう、確かに「現実」は、そこに生身の眼に見える以上の記号を馮依させられるという意味で、「拡張」されている。
しかも、恐るべきことに、いや、喜ぶべきことに、
そういう技術への展開の可能性を秘めたケータイ端末が、いまや世界中のかなり多くの人数の人々の手もとに既にわたっているのだ。
世界の携帯電話サービス加入者数は2009年末に46億人に達し、普及率は67%となる見通しだ。国連のITU(国際電気通信連合)が10月6日に最新統計を発表した。
印刷技術の発展に後押しされた印刷物の大量流通が、国語に国民意識に、そして国民国家という壮大な「幻想」としての「現実」を作り出したように、いまはケータイ端末の爆発的普及は、新たな言語・・・いや記号圏と、その記号たちが支える新しい幻想空間を、新たな現実として作り上げようとしている。
そこでは端的に、19世紀や20世紀の人間にとっての「現実」の証拠であった、
「いまここ」という制約が容赦なく吹き飛ばされる。
場所という概念はなくならないが、少なくとも現実の確固たる条件とはならない。
夢が現実でないのは、それが他人にも触知可能な場所を時間を持たないからだ・・・
などというのは19世紀の幻想と言われるようになるだろう。
夢で見た光景を、そのまま映像として再現し、この19正規的「現実」に重畳させることができるならば、それは他人にも眺め、参加し得る、確固たる場所になる。
こうなってくると、インターフェースのあり方もよりいっそうの進化を迫られる。
脳内に直接映像を送り込むといとうことが幻想ではなくなるように、
指でボタンを押したり、タッチパネルをなぞったりしなくても、
頭で考えるだけで操作ができる、脳内の信号で直接操作できる端末というのも出てくるだろう。
実験は既に始まっているのだ↓
NTTドコモがCEATEC JAPAN 2009で一風変わったコントローラを公開している。イヤホン型で、耳に装着して目を動かすと機器を操作できるというものだ。目の動きによって生じる電位差を利用して眼球の動きを図るEOG法という方法を活用した。イヤホンは3点の電極を備えており、これで電位差を計測する。
これはそんなに難しい話ではない。
身近なところでいえば、こんな例がある↓
NTTドコモは、10月6日から開催中の最先端IT・エレクトロニクス総合展「CEATEC JAPAN 2009」において、ケータイで自宅の家電を遠隔操作したり、インターホンをケータイへ転送するホームサーバー「ケータイホームシステム」を公開した。外出先から自宅のエアコンや照明器具などの電源オン・オフや玄関の鍵の施錠、来訪者があった際のインターホンの応答などが遠隔でできる。2009年冬から住宅メーカーやデベロッパーなどに提案し、実際に導入を進めていく計画だ。
実際に、生身の身体で、その場に居なくても、遠隔操作で家の用事を済ませられるという訳だ。これは素朴に便利だろうと思う。外出先でも、家に宅配便がきたことがわかるのだ。「夜にもう一度きてください」でも「ドアの前に置いておいてください」でも、その場ですぐに応対ができるのだから、「便利」に違いない。
その場に居ない、ということは、もう言い訳にはならない。
ケータイ端末を持っていることで、いつでもどこでも人は応答可能性を付与される。
そんなケータイ端末が普及しきった世界では、もしも電話の着信を無視したりすれば、
それこそ行方不明者扱いされてもおかしくないようになるだろう。
■拡張されてあること
メディアはなんとかの拡張だと、マクルーハンは言っているが、
そもそもいま我々がケータイでもって拡張しようとしている「現実」というやつだって、
実はもうすでに、相当に技術的に拡張されて作られた人為的世界なのである。
そういう意味で言えば、我々にとっての現実感とはつねに仮想的な現象だったりするのだ。
新しいメディアが、我々にどのような現実感を構成することを可能にしてくれるのか。
それはメディアが、どのような記号を繰り返し出現させうるのか、という素朴に技術的なしくみにかかっている。
拡張された現実が、言語を失ったキーワードの世界、商品ロゴと電気的刺激だけの世界にならないとも限らない。
なによりも肝心なこと、それは記号を記号たらしめている、我々一人一人の頭の働き、無自覚な言語使用の経験を、どこまで自覚できるのか、という、至って古い、理性と呼ばれるものを繰り返し思い出し続けることにあるのだ。もちろん、ここでいう理性は、半分以上、いや、ほとんどすべて、あらかじめ他者の方に投げ出されている、恐ろしいものである。
言い換えれば、言葉がどれほど他人行儀なものなのか、
本質的に自分とは関係がないことだと、言葉を使って最後まで唱え続けられるかということだ。
そういう意味でおもしろいのはこちら↓
「誰かが投稿した質問に、ほかの誰かが『たぶん……』と自信なさげに答えるサイトです」――ニフティが運営する「デイリーポータルZ」(DPZ)は、投稿された質問に、思いつきや憶測で回答するQ&Aサイト「@nifty!たぶん袋」をスタートした。 「間違ってるかもしれないけど書きたい! 思いつきや憶測でも回答したい! 自分の知らないことにも首を突っ込みたい! という落ち着きも分別もない僕たち私たち」がターゲットという。 回答のルールは、自信のなさを謙虚に表していくこと。「答えの内容は想像やうろ覚えでもかまいませんが、『たぶん~だと思います』や『よく分からないのですが~かもしれません』など、自信のなさを謙虚に表していくことにより、いい感じに頼りないページが完成します。この点は守ってください」としている。
このシステムは、言語の恐るべき本質を突いている。
そう、すべては「たぶん〜〜だと思います」の蓄積なのだ。
みんなが繰り返し繰り返し「多分それは〜〜だと思います」といい重ねることで、
いつのまにか、「それは〜〜です」と、多分と、思うが抜け落ちるのだ。
この多分と思うを留保することが、
所与の記号で作り上げられた仮想的な現実が仮想的なものであることを忘却してしまう意識と対抗する唯一の、ほとんど唯一の戦い方なのである。
思い起こしてみよう、この世の中のフォーマルな言葉のやりとりが、いかに「多分」と「思う」を排除しようと必死になっていることかを。
幻想が幻想であることを思い出されては困る連中がいるのである。
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