「検閲」か「編集上の判断」か――Wikipediaの情報削除めぐり批判ウェールズ氏はeWEEKに、「わたしが知っている限りでは、ほかに情報が消されたケースはない」と語り、出所が分からない、信頼できない情報が Wikipediaから消されることはたくさんあると付け加えた。知識は時間をかけて広まっていく性質があるため、時には、削除された情報が後で正しかっ たと判明することもあると同氏は語る。
実はこれこそが、本来的な「本当のこと」が生まれ出てくるプロセスなのである。コトバによる記述の「正しさ」というのは、あくまでも政治的で主観的な価値判断の問題である。いかに客観性とか、事実とか、そういった概念を持ち出しても無駄なこと。本当のこと、というのが主観的なものであること、よりやわらかく言えば、多面性を持っていること、多義的であることは、やむをえないことなのである。
アルディア氏はまた、ウェールズ氏とWikipedia管理人の行為は、Wikipediaを「完全で公平なニュースと情報の源」と考えている人々からの信頼を損ねると指摘する。ウェールズ氏はこれに異を唱え、以下のように、同氏らの行為は検閲ではないと主張した。
「品質に関するルールを厳密に適用した行為だった。われわれが『信頼できる情報源を求めている』『われわれの成果がもたらす人道的な影響を気に掛 けている』と言っているときは、本気でそう言っているのだ。人々が、この時代になってもまだ『検閲』――力によって行われるもの――と『編集上の判断』 ――何を公開すべきかについての理性的な判断――の概念を区別できないのは奇妙だと思う。こうした言葉の誤用が、重要な状況の事実を理解できなくしてい る」
この問題の原因となった出来事は、2008年11月10日、ローデ氏がアフガニスタンでタリバンに捕らえられた直後に始まった。NYTの関係者 は、Wikipediaなどのサイトでこの事件が取り上げられたら、タリバンがローデ氏を非常に重要な人物と見なして開放を拒み、同氏の生命の危険が高ま るのではないかと懸念したと、同紙の記事には書かれている。
「Wikipediaを「完全で公平なニュースと情報の源」と考えている人々」が居るということに驚かされる。
一体そんなおめでたい人びとが居るのだろうか。伝統的な印刷メディアの新聞だって、完全で公平な情報など一片も載っていないということを知らないのであろうか。
コトバは不断の討論、論争、言い換え、言い争い、表現の中和、新しい言い方での止揚、をいった生きた運動体なのである。何をどういうか、どういうコトバの使い方をして、何を語りうる事柄として準備するかは、我々の先祖が積み重ね、そして我々が日々積み重ねている言葉遣いの何気ない実践の中で、都度解体され、そして再生産されているのである。
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