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2008年12月19日金曜日

携帯電話に期待しすぎないほうがよい

 ケータイを「モノ」としてではなく、「使い方」という観点から考える。そうすると、いろいろなことが見えてくる。

http://tb.itmedia.co.jp/tbs/news/articles/0812/19/news012.html

携帯電話リサイクル義務化、反対が4割 「手放すのは悲しい

 携帯電話に使われている金や希少金属(レアメタル)などの再利用を目的に、使用済み端末の回収・リサイクルが2009年にも義務付けられるとする報道があったが、使用済みの端末を手放したくない人も多いようだ。

 アイシェアがユーザーに行った調査によると、端末回収の義務化について「反対」(26.3%)、「どちらかといえば反対」(15.9%)は合わせて42.3%。「賛成」(13.2%)、「どちらかといえば賛成」(21.2%)の合計を7.9ポイント上回った。

 携帯電話を機種変更する際、古い端末を「必ず持って帰っている」人は61.0%、「場合によっては持って帰る」が25.4%。合わせて86.4%の人が持って帰っているという結果だ。

 携帯端末を手放すことが「悲しい」人は22.4%、「ちょっと悲しい」人は47.1%と、合計69.5%の人が悲しいと感じていた。「悲しい」「ちょっと悲しい」と答えた人は、女性(78.6%)と30代(75.3%)に多かった。







 ケータイはユーザにとって単なる「もの」ではない。

 それはともに生活した相棒であり、家族や友人よりも近くに居て多くの秘密を分かち合った片腕であり、「自分の一部」なのである。使い終わったケータイもまた、そのケータイを使って生きた時期の記憶とともにある。特にメールの履歴がそのなかに残っていたりすれば、まさに使い古しのケータイは自分という人間がかつてどこかでだれかとかかわりあって生きてきたという事実を、今によみがえらせてくれる、タイムカプセルのような、あるいは脳よりも明晰な記憶の媒体… あるいは人間関係が物象化したモノなのである。
 行政から見れば、使われていない携帯電話端末の「群れ」は、レアメタルの「都市高山」ということになるのだろうが。
 ひとりひとりのケータイユーザにとっては、自分が人生のある時期をいつも肌身離さず持ち歩いてきた「一台一台のその端末」を、単に貴金属が含まれた物質の塊と見なし、溶解炉の中に放り込むことはできないのだ。古いケータイ、それはそこから、友や家族の声が聞こえてきた、なつかしい過去の場所なのである。



http://tb.itmedia.co.jp/tbs/news/articles/0812/19/news025.html

携帯電話しか持たない世帯が17.5%に――米調査

 米国の若い世代、特に子供を持たない世帯では固定電話を持たず、携帯電話のみを所有する率が増えているようだ。[…]

 固定電話を持たず、携帯電話のみを所有する米国の世帯は17.5%――。米疾病対策予防センター(CDC)が12月17日、こんな報告書をまとめた。

 CDCが今年1月から6月にかけて実施した「National Health Interview
Survey(NHIS)」によると、携帯電話のみを所有すると回答した世帯が17.5%となり、2007年7~12月期から1.7ポイント増加した。ま
た固定電話を所有していても、ほとんどすべての通話を携帯で済ませているという回答が、13.3%に上った。


 
 「音声通話」という機能を実現できるのであれば、そのための装置が、固定電話であろうが、携帯電話であろうが、本来ユーザにとってはどちらでもよいのだ。ケータイか固定か?という区別の仕方は、「誰かと音声通話する」というユーザの行動にとっては本来どうでもよいことなのだ
 強いて固定電話を必要とする場合があるとすれば、機械的に携帯の電波が届かないとか、あるいは社会的に、携帯電話の番号では相手に信頼されない…といったときだろう。
 ところで、なぜこの調査を「疾病対策予防センター」が行っているのだろうか??


http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Research/20081217/321610/

「生活切り詰めても携帯電話が必要」--米消費者



 米Sprint
Nextelは米国時間2008年12月16日,米国の消費者による携帯電話の利用状況について調査した結果を発表した。それによると,不況により支出の切り詰めを余儀なくされているなか,回答者の83%は引き続き携帯電話を所有したいと考えていることが分かった。


 今回の調査では,回答者の72%が「世帯支出を削減した」と答えており,「支出が前年と同水準」とする回答は22%だった。こうした状況下で,回答者の83%は「携帯電話の所有」を選択しており,56%は「一日中携帯電話を手放すことができない」と答えた。

 回答者の32%は,節約のために「固定電話を解約して携帯電話だけを使うようになる可能性がある」と考えている。43%は通話の半分以上を携帯電
話から行っており,18%はすでに固定電話を利用していなかった。「固定電話を解約してもよい」と考える理由としては,76%が「節約」を挙げている。



 「一日中携帯電話を手放すことができない」

 日本でもそういう感覚でケータイを携えている人は少なくないので?

 ケータイは生活や仕事から切り離し可能なオプションではない。むしろいまや生活や仕事ということが、ケータイによって回されていると言えなくもない。ケータイのアラームで起床するところから始まって、スケジュールの管理、そして誰かに連絡を取りたいとき、気軽に電話をしたり、メールを打ったりする。昔のように待ち合わせの時間と場所を厳密に決めなくても良くなったし、急な予定変更も気軽にできるようになっている。ケータイが無いころは、約束の場所に行ったのに会えずに帰ってきた…という、今では信じられないようなこともしばしばあったものだ。そしてみんな、そういうこともあるだろうと、案外素直に受け入れていたものだ。

 そしてもっとも根本的なこと、誰もが誰もを「いつでもどこでも呼び出しうる」というその「可能性」。昔はそういう可能性は「ない」ということが前提で、その上で社会が、生活が、ビジネスが回っていたのだ。一度外に出かけてしまったら、どこで何をしているかなんてわからない。知りようが無い。それが当たり前、という環境である。誰もそのことを不思議に思わなかった。
 しかし、いまや、どこに居ても、すぐに家や会社からの電話で呼び戻されるのだ。「誰もが、いつでも呼び出しに応じうる可能性の元にあること」が、このケータイの普及した社会では、社会関係の存立の基本的条件とさえなっているといえるだろう。「ケータイかけてもつながらない」これほど現代人を不安にさせることはない。ケータイに出ない、ケータイがつながらない、電波が届いていない…。ケータイのネットワークから切り離されてしまった(あるいは自ら離れた)人は、一挙に、「誰もがいつでも呼び出しに応じうる可能性の元にある」という前提条件から降りてしまうのだ。こういうとき、ネットワーク内に残っている人、呼び出しに応じうる可能性の元にあることが「当然」と決めてかかっている側の人にとっては、この前提条件から降りてしまった相手を、どこか根本的なところで失ってしまったように感覚するのである。
 これは人間の感覚、他者との距離の感覚だとか、人間関係の直感的イメージ、あるいは「共感」ということの、大きな変制の要因になっていると思うのだが…。このあたりはまた詳しくかんがえてみたい。

 さて、最近ちまたを賑わせているのが、小中学校、あるいは高等学校への「携帯電話持ち込み禁止」の話である。


http://japan.cnet.com/mobile/story/0,3800078151,20385599,00.htm?ref=rss

 いままで、誰もあえて言い出さなかったことが、ここへ来てにわかに盛り上がりを見せている。タレント府知事のマスメディア上での発言の影響力というのは大きい。あるいは、批判や陰湿な中傷にもめげず、「感情は素直に表現すればよい…」といった趣旨で、自分の信じる「正論」を叫ぶというスタイルも、かの作家都知事以来、少しづつ定着しているようだ。「ケータイ禁止!」の宣言をうけて、一挙に国までが動き始めた。

 発言は訂正しないのが勝ち、謝ったらマケ、言い訳はしない、開き直るが勝ち… どうも政治的な「オピニオン」の世界では、そういう風潮が広まっているようだ。

 ただしこの風潮を勘違いして、ビジネスの場面でこの手を使ってしまうとたいへんなことになる。食品偽装をした挙句、「私も被害者!」「みんなやってること」と開き直るというスタイルはあまりはやらなかった。商売ではお客が居なくなる、という明確な基準で「善悪」が判定されてしまうからだ。
 方や、政治的な議論というのは、イマイチ善悪がはっきりしない。二つの対立する立場があるとき、どちらにも一理あるし、どちらにも不足はある、というのが常だろう。だからこそ、政治の本質は「議論」だというのだ。議論というのは相手を論破し、黙らせ、自分の意見に従わせるということではない。足りないところを補い合ったり、最低ここは譲れないよねという妥協点を見出したり、という、いい意味で「談合」の世界である。
 ところがどうも、ちかごろ政治家の「言いっぱなし」が多いように思う。しかし勘違いしてはいけない。悪いのは意見を断言調で語る政治家ではない。この断言を問題提起として引継ぎ、これに応答する声を発する人間、そしてそういう声を、最初に断言が発せられたと同じ「メディア」の上に再び流すこと。繰り返し、議論の推移をメディアに乗せ続けること…。これが重要なのである。断言は断言でよいのだ。ただしそれを、単に断言で終わらせてしまってはいけないのだ。断言に応答し議論に引き込む… それをすることこそ真の政治家であり、メディアであり、そして人間と人間のかかわりのあるべき姿だと思うのだが…どうも期待しすぎないほうがよさそうだ。

 さて、ケータイの話である。
小中学校への携帯電話の持ち込み禁止--教育再生懇談会が提言へ

 小学校、中学校への携帯電話の持ち込みを原則禁止する政府の指針がまとまった。政府の教育再生懇談会は12月18日、携帯電話問題を議論するワーキンググループが取りまとめた報告書の素案を公開した。

 素案では「必要のない限り小中学生に携帯電話を持たせないための取組」として、原則として小中学生の携帯電話の所持を禁止することが前提となって
いる。その上で、子供に携帯電話を持たせるかどうかは保護者が判断することや、学校における携帯電話の取り扱い方針を教育委員会や学校が明確にすることな
どを求めている。

 また、携帯電話を持たない子供のために、連絡手段として公衆電話を確保する重要性も強調している。

 一方、安全の確保などやむを得ない理由で保護者が子どもに携帯電話を持たせる場合にも、必要な機能に限定した端末を持たせることを推奨。そのほか、フィルタリングサービス利用の強化などを提言している。







 「ケータイ」というモノをめぐる、二つの定義がせめぎあっている。
 
方や、「安全のためのツール」としての携帯電話
 方や、「犯罪への入り口、いじめのツール」としての携帯電話

 どちらも「携帯電話という技術、あるいはモノ」が可能にする二つの「使い方」なのである。
 いま、片一方の「使い方」を止めさせたいがために、携帯電話という技術そのものを排除しようという議論になっているようだ。しかしかんがえてみれば、「学校へ持ち込み禁止」にしたところであまり効果はないだろう。家に帰ってから、夜遊びのツールとして、ますます犯罪の入り口としての使い道に特化して使われるかもしれない。さらに言えば、学校を卒業してしまえば、例えば高校を出てフリーターになったり、大学生になったりしたその日から、ケータイの「闇」の世界にデビューすることになるわけだ。これでは学校が管理責任を問われないというだけで、子供、いや、若者が「ケータイを使って悪いことをする」という事態は何も改善しない。
 「犯罪の入り口」としてのケータイを禁止したいという観点で言えば、学校も家庭も関係なく、そもそも「未成年は携帯禁止!」とか、大人であっても「携帯電話の使用を免許制にする」といった対策が必要だろう。あるいは携帯電話の通信記録はすべて警察が記録する、という手もある。超管理社会、超監視社会である。こういう運用上の「しばり」でケータイという技術から、犯罪に利用できる可能性を根本的に剥ぎ取ってしまうのだ。…と、もちろんこれは極論を言っているのである。読めば分かると思うが、念のために言っておけば「たとえ話」である。
 
 論点は次のことにある。
 携帯電話という技術は、複数の「使い方」を可能にするのだ。
 夜道に迷ったときに警察を呼ぶこともできるし、犯罪仲間を募る掲示板に参加することもできる。
 ケータイを「使う」ことで行われているのは、結局、人間と人間のあいだの音声や文字のやり取りであって、そのやり取りされた言葉が、どういう社会関係を引き起こすのかは、本質的にはケータイとうい技術とはあまり関係が無いのかもしれない。犯罪集団を結成するのか、警察のサポートを得るのか、親子の絆を深めるのか… それは本質的にケータイがあろうが無かろうが、いつの時代、どこの家族にもありうる、さまざまな人間関係のゆらめきなのである。ケータイが無くても、いじめはあったし、犯罪もあった。都市の闇もあった。もちろんケータイの登場によっていじめや犯罪に、新しい形態が登場したということはあるだろう。しかし、あまり携帯電話に期待しすぎないほうがよい。携帯電話を禁止したからといって、なにかが大きく変わるわけではないのだ。流れる筋は変わろうとも、水は上から下へ流れていく。そういう基本的な人間同士のかかわり方の特性というものが、ケータイという舞台で花開いているだけなのだから。

 本当に「禁止」すべきは、携帯ではなく、人間の振る舞いの方である。
 
 政治家たちはこのことに気づいているのだろうか?気づいていないのだろうか? 気づいていない方が…、的外れにケータイ悪玉説を叫んでいてくれる方が、社会は明るく安全でいられるかもしれない。そう、携帯電話の技術に依拠したユビキタスな社会は、「使い方によっては」、オーウェルの『1984年』の世界を作ることだって不可能ではないからだ。

2008年12月17日水曜日

情報源としての人間

「人間」を情報の発信源とみなす考え方がある.
人間がまず居て,それが情報を発する,という図式である.
この図式では,人間と情報という異なる二項があり,一方が他方の発生源になっている,とされる.

二項関係を定置して,一方を他方の発生源とみなすという考え方.
ここではしばしば「発生源」の役割を果たす項の,他の項に対する先行性を保証するために,発生源項が所与のものであると措定される.

人間と情報の関係も,そういう図式で理解されることが少なくないように思う.
情報発信者としての人間,情報の創造者としての人間,といったイメージは,あらゆる言説に散見される.




しかも近頃の言説の特徴は、人間を情報の「意識的な」創造者とは見ていないという点である。
人間は、ただ漫然と生きているだけで、うろうろと街を歩き回っているだけで、あふれんばかりの情報を流出させ、痕跡を残しながら動き去っていくのである。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0811/28/news093.html

道を探すときにネットや携帯を便りにする人は25%を超える――Nokiaがこのような調査結果を発表した。

「人々は携帯や車のナビゲーションツールの利用に慣れてきている。携帯電話のナビゲーション機能はカスタマイズでき、従来の地図よりも迅速に、簡単に情報を更新できる急速に発展し、常に新しい道路やビルができている都市では、人々はいつでも持ち歩ける携帯ナビゲーションツールに依存するようになっている」
 思えば私の子供のころから、数年に一度は「地図を買い換える」ということをしていた気がする。しかし、グーグルマップやら、その他ネット上の地図情報サービスのおかげで、最近は地図を買わなくなった。
 出先で、ケータイを地図として使うということ。このことの真相は、単に地図を最新のものに買い換える必要が無くなって、便利になった…ということにはとどまらない。誰がドコで何の場所を探したのか、という「情報」が、携帯電話会社のコンピュータに逐一記録されるということである。
 人は町を歩き回り、ケータイの地図で何かのお店の場所を調べるたび、「ニーズ」や「トレンド」という総体を更新するのであり、そして携帯電話会社はこの「ニーズ」や「トレンド」の総体を、パッケージとして、広告主に売ることができるのである。



http://japan.cnet.com/mobile/story/0,3800078151,20384664,00.htm
 モバイルサービスの充実に力を入れるNokiaが、新しいメッセージサービスとともに、地図とナビゲーションサービスの新版をリリースした。

 このたびアップグレードされた「Nokia
Maps」は、高解像度航空画像、3次元表示などの新しい機能を提供する。GPSを利用して、自分の位置情報を友人と共有することも可能だ。Nokiaは
また、Nokia Maps最新版で、PCベースのインターネットサービス「Ovi」との連携も強化している。PCでNokia
Mapsを利用して出発前にルートを決め、その情報を携帯電話と同期して路上で利用する
、などのことが可能になる。現在、この事前ルート設定機能は
WindowsベースのPCのみで利用できる。

 これ以外の新機能は、次のとおりだ。TBT(進路方向毎の)ナビゲーションガイドの購入オプション、リアルタイムの交通情報へのアクセス(一部の国)、約450の都市のイベント・映画情報を提供する「Wcities」へのアクセス、複数ある地下鉄の駅の入り口の表示(一部の都市)など。



 こういう便利な機能の大盤振る舞いもまた、「何かを求めて、街をさ迷い歩く人びと」という「もの」を対象化するための、さ迷い歩く人びとの群を情報化=モノ化するための、大掛かりな仕掛けなのではないかと思える。

 ケータイを持ち歩き、操作するだけで、人は無自覚のうちに「情報」を発信し、「情報発信者」「何かを探している人」「潜在的な消費者」として、対象化されているのである。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0811/26/news043.html

わずかな時間であっても有効に使いたい気持ちの現れか、それとも単に暇なのか――アイシェアがこのほど実施した調査によると、「トイレに何かを持ち込む」と答えた人は40.9%だった。性別では男性が46.1%と女性より10.5ポイント高かった。



何を持ち込むか聞いたところ(複数回答)、最も多かったのは「携帯電話」(60.4%)で、2位の「雑誌」(43.2%)を大きく上回った。


 行動の隅々までが、ケータイとともにあるということによって、対象化可能な事柄に編成されていくのである。
 ここでは人間は情報の発信者、というよりも、無自覚な情報源、あるいはさらに、情報源として対象化される対象、つまりそこから発信されたとされる情報によって二次的に定義されるという、矛盾した存在になりつつあるのである。

 無自覚な人間の行動をモノとして取り出すということ。次の技術はその最たるものだろう。


http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0812/12/news010.html

「夢の映像化も可能に? 人が見ている画像を脳活動から再現、ATRなどが成功」



人が目で見て認識している視覚情報を、脳活動を調べることで読み取り、コンピューターで画像として再現することにATRなどの研究チームが成功。「夢を読み取って画像かすることも荒唐無稽なことではない」という。

被験者が実際に見た画像(上段)と、そのときの脳活動情報を基に
コンピューターで再現した画像(下段)(国際電気通信基礎技術研究所脳情報研究所提供)


 物を見たときの視覚情報は、大脳の後ろにある視覚野という領域で処理される。研究チームは被験者に白黒の画像を見せ、視覚野の血流の変化を磁気共鳴画像装置(MRI)で計測。脳の活動パターンから効率よく画像を解読するプログラムを開発した。



 実験で使った画像は小さなマス目を縦横10個ずつ並べたもので、四角形や十字、アルファベットなど11種類。被験者が画像を見てから4秒後に、ほ
ぼ原画に近い画像をコンピューターで再現できた。また、見ているままの状態を動画で再生することにも成功。再現精度は個人差があるが、カラー化も原理的に
は可能という。



 夢を見ているときや、頭の中で映像をイメージしているときも、視覚野は活動すると考えられている。[・・・]

 私は夢をよく覚えていないが、自分の脳が明確に意識していない脳内の情報までが、対象化できるようになっているのである。ここでも人間は徹底的に「情報源」とされている。ここでいう「情報源」とは、情報に先立つ情報の発信者という意味合いとは違う。それは技術的に構築された情報によって二次的に、事後的に情報源としてのその正体を構成される事柄である。





http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20081203/320676/
 「これからは,ユーザーが欲しそうな情報を先取りして見つけるサービスが重要になる。ユーザー自身が欲しいものを分かっていて,自ら探す検索とは違う
サービスだ」。クアルコムは2008年12月3日,無線サービスの将来ビジョンに関する記者会見を開催し,今回来日した欧州法人の代表を務めるアンド
リュー・ギルバート氏が,今後のサービスをこう展望した。国内でも,通信事業者を中心にコンシェルジュ(案内人)やエージェント(代理店)機能を提供する
サービスが始まっており,同じような将来展望を示したことになる。


クアルコムは2008年3月,アイルランドのザイアム(Xiam)を買収した。ザイアムは,データの関連性(relevance)に基づいた推薦
(recommend)機能エンジンを開発しており,同エンジンを使うことで膨大な情報の中からユーザーの属性や所在地に基づいてフィルタリングしたサー
ビスを提供できる。
 これは広告の本質を就いている。もともとすでに何かを欲しがっている人は、もう立派な購入者予備軍であり、こういう人たちに、最後の一手、実際の購入を行ってもらうための広告というのも確かにある。
 しかしより本質的な広告というのは、あるものがこの世に存在すること、お金を出せばそれを手に入れることができることを、そのものの存在を知らない人びとに伝えることにある。

 「レコメンド」という最近良くある広告手法もその一つだろう。従来のマスメディア型の広告では、不特定多数に、闇雲に大量の広告を打って、そのうちわずかでも、ひっかかってくれればいい、といった発想がまかり通っていた。しかしこれからのレコメンド広告は、ある1人の人間の、これまでの行動の履歴、購買活動の履歴、検索キーワードの履歴などから、その人間が「欲しそうな」ものを予測するのである。

 ここで人間は、「アレがほしい」「これが欲しい」という情報を絶えず撒き散らしながら街を歩き回ったり、ネットサーフィンをしたりする、そういう存在として捉えられているのだ。しかも当の本人が、「自分は何が欲しいのか」、明確に意識していない場合もありうる。



http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0812/04/news031.html

 Amazon Remembersは、日常で気になった製品や、欲しいと思った製品をiPhoneで撮影すると、自動的にAmazon.comにアップロードし、同サイトで販売されている同じ製品、または類似する製品を検索してくれるというもの。

行動履歴から、その人間が何者であるのか、何を欲している者であるのかが対象化される。上のニュースもまたこの観点から理解することができるだろう。今のところ、行動履歴を把握する技術というのはまだまだ発展途上だ。ケータイ端末のGPS機能で、おおまかな移動の軌跡を捉えるとか、ひとりの人間が打ち込んだ検索キーワードの蓄積、閲覧したサイトの蓄積、などが、行動履歴として対象化されはじめているが、これだけの情報では、まだまだ不足だろう。
 この点でケータイ端末に搭載された「カメラ」というのは、その撮影された場所と時間、写っている内容、写っているモノや場所の情報から、そのカメラの持ち主の趣向を、より丁寧に採取することができる技術的基盤になるかもしれない。


http://techon.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20081120/161530/?ST=device&ref=rss


呼気による病気の診断機能を備えた携帯電話機を日常のヘルス・ケアの中心に据えようとする動きがある。携帯電話機は個人が常に持って歩く機器であり,通話するときには意識しなくても呼気を吹き付けている。日常の健康状態を測る機器として,これほど適したものはない。

 人間に起因するあらゆる傾向を、情報として対象化するということ。
 このニュースもまた興味深い。ケータイ端末でしゃべっているときに、必然的にわれわれが端末に吹きかけている「呼気」である。これを測定して、所有者の健康状況を測ろうというのである。ここでケータイの使用者は、潜在的な病人として対象化される。


http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0812/03/news016.html


 もう少し明るい話題もある。


 JR東日本は12月10日から、「発電床」の改良版を使った実証実験をJR東京駅で2カ月間にわたって行う。乗降客が歩くことで発電し、将来は自動改札機や電光表示器などへの利用を目指す。

 今年1~3月に実施した実験では、改札を1人通過するごとの発電量は約1ワット秒。今回は10倍の約10ワット秒に引き上げ…



 われわれは、ただ歩いているだけで、「エネルギー」の変化を引き起こしているのである。動き回る人間の群を「エネルギー源」として対象化するということ。
 
 最後に、興味深い新技術を1つ。
 別人の体に乗り移ったような感覚を得られる装置が開発されそうだというのである。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0812/04/news087.html

 スウェーデンの研究者が閉回路テレビを使って被験者の人体を仮想現実的に入れ替える実験を成功させた。実験では、女性の被験者に男性の身体に入れ替わったように錯覚させたり、逆に男性の被験者に女性の身体に入れ替わったように錯覚させたりすることにも成功したという。

 「この研究は人間が自分の身体の境界をどのように理解するかの説明にも役立つ」とストックホルムのカロリンスカ研究所の研究者、バレリア・ペトコバ氏とヘンリク・エアソン氏は報告している。

 両氏は被験者をだますために幾つかの実験を用意したという。いずれも、ゴム製の手を自分の手であるかのように思わせるという、一般的な錯覚実験のバリエーションだ。

 ゴムの手の錯覚実験では、被験者の手を隠し、目に見える位置に置いたゴムの手と被験者の手を同時になでる。すると、被験者はゴムの手を自分の手であるかのように感じるのだという。

 ペトコバ氏とエアソン氏の実験は、このゴムの手の錯覚実験をさらに掘り下げたもの。両氏は閉回路カメラを使って、被験者にゴム製のマネキン、あるいは別の人間の身体を自分の身体であるかのように思わせる実験を行った。




 もしこういう技術が商品化されて、誰もが自分の望む、自分の欲する、あるいは自分が欲していると思い込まされている在り方に、感覚のレベルから仮想的に沈滞することができるようになったとすれば…。人は他人の身体が得、発している情報を自分のものとして引き受けることができる。


 このとき、「何かを欲している人間」、あるいは「情報発信者としての人間」という、情報の前提となる単位としての人間はどうなるのだろうか。そういう1人の人間、同一性を持った、所与の個物としての人間という概念が消え去るのかもしれない。


 「自分」をも買うことができ、流行に合わせて買い換えることができるようになったとしたら、何かを欲している自分というのは一体何者になるのだろうか?・・・おそらく、この問いかけ自体が、大いに的を外しているのだろう。 

 はじめに、人間が情報の発信源と考えられる…と述べた。実はこれは順序が逆転していて、はじめに「情報」があって、これが人間が何者かを定義する、とかんがえられる。情報によって人間とは何かが定義され、都度定義されなおす、ということが、ことの本質なのである。情報の原因を人間に求めるという発想が、そもそも情報ということをあまりに素朴に、書かれた手紙や、筆者名の入った小説のようなものと同一視しているということの徴候である。人間を情報源として、所与の出発項として措定するアイディアは、当の人間の「出所」の真相を見事に覆い隠してしまう。

2008年12月16日火曜日

「広告」というイデオロギー装置

 メディア論というとある筋ではマスコミ論と同一視されることが少なくない。

 実際マスコミュニケーションは、数あるメディアの中でも重要な、影響力の大きなメディアのひとつであることは間違いないだろう。とはいえそれはあくまでも多の中の一部である。

 私はメディアという言葉を、アルチュセールの「イデオロギー装置」の概念に近いものとして定義すべきだとかんがえている。アルチュセールにあっては、いわゆる新聞雑誌、ラジオ、テレビ、などというマスコミメディアに加えて、学校教育とか、ある種の宗教とか、政治政党とか、そして「家庭」までもが、人びとに、自分が何者であって何者でないのか何が現実であって何が現実ではないのかを区別する術を教える「イデオロギー装置」と位置づけられている。
 ただしこのイデオロギー装置という言葉は若干使いにくい言葉である。これはアルチュセールの思想の言葉であって、この言葉を使って何事かを騙っていると、自ずと彼の思想の圏内にある思想を吐露しているというふうに読まれがちである。しかし私は、アルチュセールがこのイデオロギー装置という言葉によって行った問題提起を共有したいとは思うが、一方でこの概念の「固さ」に対しては違和感を覚える。この概念では、イデオロギーということが生成したり変化したりする事態、現実についての複数の定義がせめぎ合う危うい状況といったことが、ある事柄に対する問いの立て方の複数性などが、うまく掬えないように思えるのだ。
 わざわざアルチュセールの用語を用いて、読み手に混乱を引き起こす必要もあるまい、ということで、私はよりあいまいで、誰もが自分の言葉として安易に使うことができる「メディア」という言葉を選んでいる。しかしこの点で私は、メディアということをマスコミと単純に同一視してはいないのである。

 前置きが長くなってしまったが、このマスコミということが、いま岐路に立たされているらしい。
 20世紀を通じて、情報の生産と流通を一手に担ってきた、新聞、テレビといったマスメディアが、いま経営難に陥りはじめているというのである。
経営難とは何か、要するにマスメディアという情報の生産機構、流通機構が、カネを投下するに値しない、カネを増やすようには働いてくれない、という認識が広まっているということである。

http://it.nikkei.co.jp/internet/news/index.aspx?n=MMIT11001011122008
藤代裕之氏のコラム、『マスメディアは「Google経済圏」から脱出セヨ』である。
 米国は数年前からメディア業界が激震に見舞われていたが、ついに日本でも危機が表面化した。朝日新聞は2008年9月中間期に103億円の最終赤字を計上し、地方紙では秋田魁新報、南日本新聞が夕刊を廃止すると発表した。日本テレビ、テレビ東京も9月中間期に最終赤字に転落、広告代理店も減収減益となり、マスメディア業界全体が冬の時代に突入したように見える。
[…]
 (Googleの台頭は)流通業に例えるなら、スーパーマーケットの隣に、生産者が(場合によってはお金まで出して)産地直送品を並べる超大型スーパーができたようなものだ。多
くはこれまでスーパーの店頭に並んでいた商品に比べると品質は低いかもしれないが、時々びっくりするような「当り」もある。どんなニッチな商品もある。ほとんどが無料で、街角に無数に置かれた「自動販売機」でも買えるとなると、わざわざ旧来のスーパーに足を運ぶお客はいない。
[…]

 コンテンツの有料課金モデルは難しい。情報は無料と考えるユーザーにコンテンツにお金を払う価値があることを理解してもらわなければならないためだ。メディア経営者は、ソーシャルメディアといかに差別化できるか、付加価値をつけるかを考え、「情報は無料」の
Google経済圏から抜け出さねばならない。


 「そのメディアにしかないコンテンツや価値」をユーザーに説明できないメディアは無料の波に飲み込まれる。誰もが情報を発信できるようになれば、情報発信をしてお金を取れるのは「その人にしか表現できないもの」がある人に限られてくる。

 ユーザが情報にカネを払うかどうか、という論点は然りである。 
 
 これに加えて鍵になるのは「広告」だろう。
 もともとテレビだって、NHKをのぞけば「無料」で見ることができたのだ。
 チョムスキーが『マニュファクチュアリング・コンセント』で述べていることだが、マスメディアは広告主に「視聴者=消費者」を売って、カネにしてきたのである。この辺の事情は、いまでもなにも変わっていない。広告主は何か売りたいモノがあって、そのモノのことを、いかにもそれを買ってくれそうな人に対して知らせたいのである。このところの事情は、今も昔も同じである。ようは新聞やテレビよりも、インターネットの検索連動広告の方が、より直接的に、あるものを売りたい広告主と、そのものを買いたい消費者とを、結び付けてくれると思われていることが、広告費のマスコミ離れの原因だろう。実際、そのものに興味があるか無いか、イマイチよくわからない不特定多数の人に広告を投げるよりも、はじめからそのものを探している人に対して、「うちで売っていますよ」とアピールできる検索連動広告の方が、はるかに費用対効果が高いように、思えるのである。
 限りある広告費をどこに投下するか、その判断を迫られたとき、なるべく既に購入意欲を持っている人たちに効率よく訴えかけるほうが、はるかに資金の回収効率が高いと考えるのは正論だろう。
 無論、広告の本来の機能とは、モノを売ることではなく、ブランドを、ものの名前を、ものの存在を、人びとに広く知らせることにある、という考え方もあるだろう。しかし、そういうことに湯水のごとくカネをつぎ込めるのは、ごく一部の大企業に限られる。

 ちなみに、加えて言えば情報は無料ではない。一見無料に見える情報も、その情報を生産するための費用はめぐりめぐって何らかの商品の購入代金として、われわれ消費者が負担しているのである。


 さて、そのマスコミであるが、次の興味深いニュースはコチラである↓

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0812/12/news042.html
「産経朝刊、まるごとiPhoneで 無料アプリ登場」

 産経デジタルは12月12日、産経新聞朝刊の全紙面を、紙の新聞そのままのレイアウトで読むことができる無料のiPhone/iPod touchアプリを、iTunes Storeで公開した。

 日本の新聞社が紙面を無料でiPhone/iPod touchに配信するのは初。


 1面からテレビ欄まで、広告を含めた全紙面を、当日の朝5時に配信する。

 これは本当に「紙面を無料で」読むことができるのだろうか?

 もしそうならば、お金を払って紙の新聞を読んでいる人はどうなるのだろうか?

 どういう意図で、このサービスを始めたのだろうか?ネット配信で「部数」を増やし、広告費をより多く取るという発想だろうか?いずれにしても、紙の新聞をお金を払って買っている人々は、なんだか損をしたような気がするのではないか。
 ただ、「新聞」をあの小さなタッチパネルのインタフェースで読むのは案外疲れることだろう。文字のサイズを大きくしたり小さくしたり、画面を移動したり…。想像するだけでも眼の奥が痛くなる。。このサービスの今後の動向に注意していきたい。

 ちなみに同じ産経の戦略について、こういう記事もあった↓

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0709/25/news064.html
「スクープも紙より先にWeb掲載 「MSN産経」の本気度」

 これは2007年の記事である。
 記者のWebに対する意識向上にも取り組んできた。産経新聞の発行部数は全国で約200万部だが、産経グループサイト全体の月間ユニークユーザーは約2000万人。「10倍の読者に向けて記事を書けると記者たちは燃えている」(産経デジタルの阿部雅美社長)

 「紙面を限定されない」というWebの強みをいかした取り組みも行う。新聞では掲載できなかった重要裁判の冒頭陳述や政治家の会見内容を全文掲載。報道写真の一部は、1024×768ピクセルと大きなサイズで提供する。

 収益は広告から得る計画。産経デジタルとMSが営業活動を行う。
 コレを読んで、ますますはっきりした…ような気がする。ようは広告なのだろう。発行部数は広告費に直接影響する。部数を増やし、より多くの人に読んでもらうことが、広告媒体としてマスメディアの対投資効率を高めるのだ。


 アルチュセールがイデオロギー装置の中に「広告」というものを数えていたかどうか、よく覚えていないが。
 しかし、マスコミの正体は「広告」なのである。
 世界は「買うべきもの」「カネを払って得るべきもの」に満ち溢れていると教えるのが広告である。
 そういう広告が、私たちの現実を現実として構築する、イデオロギーの言葉になっているという事態。
 
 これはメディア論の大きなテーマである。広告の言葉が私たちに呼びかけ、私を私に「する」という、その構築の作用。この作用を対象化する作業が必要だろう。