●http://tb.itmedia.co.jp/tbs/news/articles/0812/19/news012.html
携帯電話リサイクル義務化、反対が4割 「手放すのは悲しい」携帯電話に使われている金や希少金属(レアメタル)などの再利用を目的に、使用済み端末の回収・リサイクルが2009年にも義務付けられるとする報道があったが、使用済みの端末を手放したくない人も多いようだ。
アイシェアがユーザーに行った調査によると、端末回収の義務化について「反対」(26.3%)、「どちらかといえば反対」(15.9%)は合わせて42.3%。「賛成」(13.2%)、「どちらかといえば賛成」(21.2%)の合計を7.9ポイント上回った。
携帯電話を機種変更する際、古い端末を「必ず持って帰っている」人は61.0%、「場合によっては持って帰る」が25.4%。合わせて86.4%の人が持って帰っているという結果だ。
携帯端末を手放すことが「悲しい」人は22.4%、「ちょっと悲しい」人は47.1%と、合計69.5%の人が悲しいと感じていた。「悲しい」「ちょっと悲しい」と答えた人は、女性(78.6%)と30代(75.3%)に多かった。
ケータイはユーザにとって単なる「もの」ではない。
それはともに生活した相棒であり、家族や友人よりも近くに居て多くの秘密を分かち合った片腕であり、「自分の一部」なのである。使い終わったケータイもまた、そのケータイを使って生きた時期の記憶とともにある。特にメールの履歴がそのなかに残っていたりすれば、まさに使い古しのケータイは自分という人間がかつてどこかでだれかとかかわりあって生きてきたという事実を、今によみがえらせてくれる、タイムカプセルのような、あるいは脳よりも明晰な記憶の媒体… あるいは人間関係が物象化したモノなのである。
行政から見れば、使われていない携帯電話端末の「群れ」は、レアメタルの「都市高山」ということになるのだろうが。
ひとりひとりのケータイユーザにとっては、自分が人生のある時期をいつも肌身離さず持ち歩いてきた「一台一台のその端末」を、単に貴金属が含まれた物質の塊と見なし、溶解炉の中に放り込むことはできないのだ。古いケータイ、それはそこから、友や家族の声が聞こえてきた、なつかしい過去の場所なのである。
●http://tb.itmedia.co.jp/tbs/news/articles/0812/19/news025.html
携帯電話しか持たない世帯が17.5%に――米調査
米国の若い世代、特に子供を持たない世帯では固定電話を持たず、携帯電話のみを所有する率が増えているようだ。[…]固定電話を持たず、携帯電話のみを所有する米国の世帯は17.5%――。米疾病対策予防センター(CDC)が12月17日、こんな報告書をまとめた。
CDCが今年1月から6月にかけて実施した「National Health Interview
Survey(NHIS)」によると、携帯電話のみを所有すると回答した世帯が17.5%となり、2007年7~12月期から1.7ポイント増加した。ま
た固定電話を所有していても、ほとんどすべての通話を携帯で済ませているという回答が、13.3%に上った。
「音声通話」という機能を実現できるのであれば、そのための装置が、固定電話であろうが、携帯電話であろうが、本来ユーザにとってはどちらでもよいのだ。ケータイか固定か?という区別の仕方は、「誰かと音声通話する」というユーザの行動にとっては本来どうでもよいことなのだ。
強いて固定電話を必要とする場合があるとすれば、機械的に携帯の電波が届かないとか、あるいは社会的に、携帯電話の番号では相手に信頼されない…といったときだろう。
ところで、なぜこの調査を「疾病対策予防センター」が行っているのだろうか??
●http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Research/20081217/321610/
「生活切り詰めても携帯電話が必要」--米消費者
米Sprint
Nextelは米国時間2008年12月16日,米国の消費者による携帯電話の利用状況について調査した結果を発表した。それによると,不況により支出の切り詰めを余儀なくされているなか,回答者の83%は引き続き携帯電話を所有したいと考えていることが分かった。
今回の調査では,回答者の72%が「世帯支出を削減した」と答えており,「支出が前年と同水準」とする回答は22%だった。こうした状況下で,回答者の83%は「携帯電話の所有」を選択しており,56%は「一日中携帯電話を手放すことができない」と答えた。回答者の32%は,節約のために「固定電話を解約して携帯電話だけを使うようになる可能性がある」と考えている。43%は通話の半分以上を携帯電
話から行っており,18%はすでに固定電話を利用していなかった。「固定電話を解約してもよい」と考える理由としては,76%が「節約」を挙げている。
「一日中携帯電話を手放すことができない」
日本でもそういう感覚でケータイを携えている人は少なくないので?
ケータイは生活や仕事から切り離し可能なオプションではない。むしろいまや生活や仕事ということが、ケータイによって回されていると言えなくもない。ケータイのアラームで起床するところから始まって、スケジュールの管理、そして誰かに連絡を取りたいとき、気軽に電話をしたり、メールを打ったりする。昔のように待ち合わせの時間と場所を厳密に決めなくても良くなったし、急な予定変更も気軽にできるようになっている。ケータイが無いころは、約束の場所に行ったのに会えずに帰ってきた…という、今では信じられないようなこともしばしばあったものだ。そしてみんな、そういうこともあるだろうと、案外素直に受け入れていたものだ。
そしてもっとも根本的なこと、誰もが誰もを「いつでもどこでも呼び出しうる」というその「可能性」。昔はそういう可能性は「ない」ということが前提で、その上で社会が、生活が、ビジネスが回っていたのだ。一度外に出かけてしまったら、どこで何をしているかなんてわからない。知りようが無い。それが当たり前、という環境である。誰もそのことを不思議に思わなかった。
しかし、いまや、どこに居ても、すぐに家や会社からの電話で呼び戻されるのだ。「誰もが、いつでも呼び出しに応じうる可能性の元にあること」が、このケータイの普及した社会では、社会関係の存立の基本的条件とさえなっているといえるだろう。「ケータイかけてもつながらない」これほど現代人を不安にさせることはない。ケータイに出ない、ケータイがつながらない、電波が届いていない…。ケータイのネットワークから切り離されてしまった(あるいは自ら離れた)人は、一挙に、「誰もがいつでも呼び出しに応じうる可能性の元にある」という前提条件から降りてしまうのだ。こういうとき、ネットワーク内に残っている人、呼び出しに応じうる可能性の元にあることが「当然」と決めてかかっている側の人にとっては、この前提条件から降りてしまった相手を、どこか根本的なところで失ってしまったように感覚するのである。
これは人間の感覚、他者との距離の感覚だとか、人間関係の直感的イメージ、あるいは「共感」ということの、大きな変制の要因になっていると思うのだが…。このあたりはまた詳しくかんがえてみたい。
さて、最近ちまたを賑わせているのが、小中学校、あるいは高等学校への「携帯電話持ち込み禁止」の話である。
●http://japan.cnet.com/mobile/story/0,3800078151,20385599,00.htm?ref=rss
いままで、誰もあえて言い出さなかったことが、ここへ来てにわかに盛り上がりを見せている。タレント府知事のマスメディア上での発言の影響力というのは大きい。あるいは、批判や陰湿な中傷にもめげず、「感情は素直に表現すればよい…」といった趣旨で、自分の信じる「正論」を叫ぶというスタイルも、かの作家都知事以来、少しづつ定着しているようだ。「ケータイ禁止!」の宣言をうけて、一挙に国までが動き始めた。
発言は訂正しないのが勝ち、謝ったらマケ、言い訳はしない、開き直るが勝ち… どうも政治的な「オピニオン」の世界では、そういう風潮が広まっているようだ。
ただしこの風潮を勘違いして、ビジネスの場面でこの手を使ってしまうとたいへんなことになる。食品偽装をした挙句、「私も被害者!」「みんなやってること」と開き直るというスタイルはあまりはやらなかった。商売ではお客が居なくなる、という明確な基準で「善悪」が判定されてしまうからだ。
方や、政治的な議論というのは、イマイチ善悪がはっきりしない。二つの対立する立場があるとき、どちらにも一理あるし、どちらにも不足はある、というのが常だろう。だからこそ、政治の本質は「議論」だというのだ。議論というのは相手を論破し、黙らせ、自分の意見に従わせるということではない。足りないところを補い合ったり、最低ここは譲れないよねという妥協点を見出したり、という、いい意味で「談合」の世界である。
ところがどうも、ちかごろ政治家の「言いっぱなし」が多いように思う。しかし勘違いしてはいけない。悪いのは意見を断言調で語る政治家ではない。この断言を問題提起として引継ぎ、これに応答する声を発する人間、そしてそういう声を、最初に断言が発せられたと同じ「メディア」の上に再び流すこと。繰り返し、議論の推移をメディアに乗せ続けること…。これが重要なのである。断言は断言でよいのだ。ただしそれを、単に断言で終わらせてしまってはいけないのだ。断言に応答し議論に引き込む… それをすることこそ真の政治家であり、メディアであり、そして人間と人間のかかわりのあるべき姿だと思うのだが…どうも期待しすぎないほうがよさそうだ。
さて、ケータイの話である。
小中学校への携帯電話の持ち込み禁止--教育再生懇談会が提言へ小学校、中学校への携帯電話の持ち込みを原則禁止する政府の指針がまとまった。政府の教育再生懇談会は12月18日、携帯電話問題を議論するワーキンググループが取りまとめた報告書の素案を公開した。
素案では「必要のない限り小中学生に携帯電話を持たせないための取組」として、原則として小中学生の携帯電話の所持を禁止することが前提となって
いる。その上で、子供に携帯電話を持たせるかどうかは保護者が判断することや、学校における携帯電話の取り扱い方針を教育委員会や学校が明確にすることな
どを求めている。また、携帯電話を持たない子供のために、連絡手段として公衆電話を確保する重要性も強調している。
一方、安全の確保などやむを得ない理由で保護者が子どもに携帯電話を持たせる場合にも、必要な機能に限定した端末を持たせることを推奨。そのほか、フィルタリングサービス利用の強化などを提言している。
「ケータイ」というモノをめぐる、二つの定義がせめぎあっている。
方や、「安全のためのツール」としての携帯電話
方や、「犯罪への入り口、いじめのツール」としての携帯電話
どちらも「携帯電話という技術、あるいはモノ」が可能にする二つの「使い方」なのである。
いま、片一方の「使い方」を止めさせたいがために、携帯電話という技術そのものを排除しようという議論になっているようだ。しかしかんがえてみれば、「学校へ持ち込み禁止」にしたところであまり効果はないだろう。家に帰ってから、夜遊びのツールとして、ますます犯罪の入り口としての使い道に特化して使われるかもしれない。さらに言えば、学校を卒業してしまえば、例えば高校を出てフリーターになったり、大学生になったりしたその日から、ケータイの「闇」の世界にデビューすることになるわけだ。これでは学校が管理責任を問われないというだけで、子供、いや、若者が「ケータイを使って悪いことをする」という事態は何も改善しない。
「犯罪の入り口」としてのケータイを禁止したいという観点で言えば、学校も家庭も関係なく、そもそも「未成年は携帯禁止!」とか、大人であっても「携帯電話の使用を免許制にする」といった対策が必要だろう。あるいは携帯電話の通信記録はすべて警察が記録する、という手もある。超管理社会、超監視社会である。こういう運用上の「しばり」でケータイという技術から、犯罪に利用できる可能性を根本的に剥ぎ取ってしまうのだ。…と、もちろんこれは極論を言っているのである。読めば分かると思うが、念のために言っておけば「たとえ話」である。
論点は次のことにある。
携帯電話という技術は、複数の「使い方」を可能にするのだ。
夜道に迷ったときに警察を呼ぶこともできるし、犯罪仲間を募る掲示板に参加することもできる。
ケータイを「使う」ことで行われているのは、結局、人間と人間のあいだの音声や文字のやり取りであって、そのやり取りされた言葉が、どういう社会関係を引き起こすのかは、本質的にはケータイとうい技術とはあまり関係が無いのかもしれない。犯罪集団を結成するのか、警察のサポートを得るのか、親子の絆を深めるのか… それは本質的にケータイがあろうが無かろうが、いつの時代、どこの家族にもありうる、さまざまな人間関係のゆらめきなのである。ケータイが無くても、いじめはあったし、犯罪もあった。都市の闇もあった。もちろんケータイの登場によっていじめや犯罪に、新しい形態が登場したということはあるだろう。しかし、あまり携帯電話に期待しすぎないほうがよい。携帯電話を禁止したからといって、なにかが大きく変わるわけではないのだ。流れる筋は変わろうとも、水は上から下へ流れていく。そういう基本的な人間同士のかかわり方の特性というものが、ケータイという舞台で花開いているだけなのだから。
本当に「禁止」すべきは、携帯ではなく、人間の振る舞いの方である。
政治家たちはこのことに気づいているのだろうか?気づいていないのだろうか? 気づいていない方が…、的外れにケータイ悪玉説を叫んでいてくれる方が、社会は明るく安全でいられるかもしれない。そう、携帯電話の技術に依拠したユビキタスな社会は、「使い方によっては」、オーウェルの『1984年』の世界を作ることだって不可能ではないからだ。