2008年12月16日

「広告」というイデオロギー装置

 メディア論というとある筋ではマスコミ論と同一視されることが少なくない。

 実際マスコミュニケーションは、数あるメディアの中でも重要な、影響力の大きなメディアのひとつであることは間違いないだろう。とはいえそれはあくまでも多の中の一部である。

 私はメディアという言葉を、アルチュセールの「イデオロギー装置」の概念に近いものとして定義すべきだとかんがえている。アルチュセールにあっては、いわゆる新聞雑誌、ラジオ、テレビ、などというマスコミメディアに加えて、学校教育とか、ある種の宗教とか、政治政党とか、そして「家庭」までもが、人びとに、自分が何者であって何者でないのか何が現実であって何が現実ではないのかを区別する術を教える「イデオロギー装置」と位置づけられている。
 ただしこのイデオロギー装置という言葉は若干使いにくい言葉である。これはアルチュセールの思想の言葉であって、この言葉を使って何事かを騙っていると、自ずと彼の思想の圏内にある思想を吐露しているというふうに読まれがちである。しかし私は、アルチュセールがこのイデオロギー装置という言葉によって行った問題提起を共有したいとは思うが、一方でこの概念の「固さ」に対しては違和感を覚える。この概念では、イデオロギーということが生成したり変化したりする事態、現実についての複数の定義がせめぎ合う危うい状況といったことが、ある事柄に対する問いの立て方の複数性などが、うまく掬えないように思えるのだ。
 わざわざアルチュセールの用語を用いて、読み手に混乱を引き起こす必要もあるまい、ということで、私はよりあいまいで、誰もが自分の言葉として安易に使うことができる「メディア」という言葉を選んでいる。しかしこの点で私は、メディアということをマスコミと単純に同一視してはいないのである。

 前置きが長くなってしまったが、このマスコミということが、いま岐路に立たされているらしい。
 20世紀を通じて、情報の生産と流通を一手に担ってきた、新聞、テレビといったマスメディアが、いま経営難に陥りはじめているというのである。
経営難とは何か、要するにマスメディアという情報の生産機構、流通機構が、カネを投下するに値しない、カネを増やすようには働いてくれない、という認識が広まっているということである。

http://it.nikkei.co.jp/internet/news/index.aspx?n=MMIT11001011122008
藤代裕之氏のコラム、『マスメディアは「Google経済圏」から脱出セヨ』である。
 米国は数年前からメディア業界が激震に見舞われていたが、ついに日本でも危機が表面化した。朝日新聞は2008年9月中間期に103億円の最終赤字を計上し、地方紙では秋田魁新報、南日本新聞が夕刊を廃止すると発表した。日本テレビ、テレビ東京も9月中間期に最終赤字に転落、広告代理店も減収減益となり、マスメディア業界全体が冬の時代に突入したように見える。
[…]
 (Googleの台頭は)流通業に例えるなら、スーパーマーケットの隣に、生産者が(場合によってはお金まで出して)産地直送品を並べる超大型スーパーができたようなものだ。多
くはこれまでスーパーの店頭に並んでいた商品に比べると品質は低いかもしれないが、時々びっくりするような「当り」もある。どんなニッチな商品もある。ほとんどが無料で、街角に無数に置かれた「自動販売機」でも買えるとなると、わざわざ旧来のスーパーに足を運ぶお客はいない。
[…]

 コンテンツの有料課金モデルは難しい。情報は無料と考えるユーザーにコンテンツにお金を払う価値があることを理解してもらわなければならないためだ。メディア経営者は、ソーシャルメディアといかに差別化できるか、付加価値をつけるかを考え、「情報は無料」の
Google経済圏から抜け出さねばならない。


 「そのメディアにしかないコンテンツや価値」をユーザーに説明できないメディアは無料の波に飲み込まれる。誰もが情報を発信できるようになれば、情報発信をしてお金を取れるのは「その人にしか表現できないもの」がある人に限られてくる。

 ユーザが情報にカネを払うかどうか、という論点は然りである。 
 
 これに加えて鍵になるのは「広告」だろう。
 もともとテレビだって、NHKをのぞけば「無料」で見ることができたのだ。
 チョムスキーが『マニュファクチュアリング・コンセント』で述べていることだが、マスメディアは広告主に「視聴者=消費者」を売って、カネにしてきたのである。この辺の事情は、いまでもなにも変わっていない。広告主は何か売りたいモノがあって、そのモノのことを、いかにもそれを買ってくれそうな人に対して知らせたいのである。このところの事情は、今も昔も同じである。ようは新聞やテレビよりも、インターネットの検索連動広告の方が、より直接的に、あるものを売りたい広告主と、そのものを買いたい消費者とを、結び付けてくれると思われていることが、広告費のマスコミ離れの原因だろう。実際、そのものに興味があるか無いか、イマイチよくわからない不特定多数の人に広告を投げるよりも、はじめからそのものを探している人に対して、「うちで売っていますよ」とアピールできる検索連動広告の方が、はるかに費用対効果が高いように、思えるのである。
 限りある広告費をどこに投下するか、その判断を迫られたとき、なるべく既に購入意欲を持っている人たちに効率よく訴えかけるほうが、はるかに資金の回収効率が高いと考えるのは正論だろう。
 無論、広告の本来の機能とは、モノを売ることではなく、ブランドを、ものの名前を、ものの存在を、人びとに広く知らせることにある、という考え方もあるだろう。しかし、そういうことに湯水のごとくカネをつぎ込めるのは、ごく一部の大企業に限られる。

 ちなみに、加えて言えば情報は無料ではない。一見無料に見える情報も、その情報を生産するための費用はめぐりめぐって何らかの商品の購入代金として、われわれ消費者が負担しているのである。


 さて、そのマスコミであるが、次の興味深いニュースはコチラである↓

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0812/12/news042.html
「産経朝刊、まるごとiPhoneで 無料アプリ登場」

 産経デジタルは12月12日、産経新聞朝刊の全紙面を、紙の新聞そのままのレイアウトで読むことができる無料のiPhone/iPod touchアプリを、iTunes Storeで公開した。

 日本の新聞社が紙面を無料でiPhone/iPod touchに配信するのは初。


 1面からテレビ欄まで、広告を含めた全紙面を、当日の朝5時に配信する。

 これは本当に「紙面を無料で」読むことができるのだろうか?

 もしそうならば、お金を払って紙の新聞を読んでいる人はどうなるのだろうか?

 どういう意図で、このサービスを始めたのだろうか?ネット配信で「部数」を増やし、広告費をより多く取るという発想だろうか?いずれにしても、紙の新聞をお金を払って買っている人々は、なんだか損をしたような気がするのではないか。
 ただ、「新聞」をあの小さなタッチパネルのインタフェースで読むのは案外疲れることだろう。文字のサイズを大きくしたり小さくしたり、画面を移動したり…。想像するだけでも眼の奥が痛くなる。。このサービスの今後の動向に注意していきたい。

 ちなみに同じ産経の戦略について、こういう記事もあった↓

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0709/25/news064.html
「スクープも紙より先にWeb掲載 「MSN産経」の本気度」

 これは2007年の記事である。
 記者のWebに対する意識向上にも取り組んできた。産経新聞の発行部数は全国で約200万部だが、産経グループサイト全体の月間ユニークユーザーは約2000万人。「10倍の読者に向けて記事を書けると記者たちは燃えている」(産経デジタルの阿部雅美社長)

 「紙面を限定されない」というWebの強みをいかした取り組みも行う。新聞では掲載できなかった重要裁判の冒頭陳述や政治家の会見内容を全文掲載。報道写真の一部は、1024×768ピクセルと大きなサイズで提供する。

 収益は広告から得る計画。産経デジタルとMSが営業活動を行う。
 コレを読んで、ますますはっきりした…ような気がする。ようは広告なのだろう。発行部数は広告費に直接影響する。部数を増やし、より多くの人に読んでもらうことが、広告媒体としてマスメディアの対投資効率を高めるのだ。


 アルチュセールがイデオロギー装置の中に「広告」というものを数えていたかどうか、よく覚えていないが。
 しかし、マスコミの正体は「広告」なのである。
 世界は「買うべきもの」「カネを払って得るべきもの」に満ち溢れていると教えるのが広告である。
 そういう広告が、私たちの現実を現実として構築する、イデオロギーの言葉になっているという事態。
 
 これはメディア論の大きなテーマである。広告の言葉が私たちに呼びかけ、私を私に「する」という、その構築の作用。この作用を対象化する作業が必要だろう。

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